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50年代を代表する若者のアイコン“ジェームズ・ディーン”が放つ心に残る言葉

こんにちは、スズロウです。

ジェームズ・ディーンは、彼の早すぎる死から60年以上経った今でも、ハリウッドで最もリスペクトされ、謎めいたアイコンの一人です。

スクリーンで見せる孤独感や影のある演技は、ジェームズ・ディーンの複雑な生い立ちや経験からくる彼自身の持つ闇を投影しているようでした。

ジェームズ・ディーンの残した名言

ジェームズ・ディーン

「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って生きるんだ」
Dream as if you’ll live forever. Live as if you’ll die today.

ジェームズ・ディーンについて

アメリカの1950年代を象徴するハリウッドの伝説的俳優。

ジェームズ・バイロン・ディーン (1931年~1955)は、映画「エデンの東」で反抗的でナイーブな青年を演じ、当時の若者を中心に絶大な人気を得ました。

一躍、スダーダムに登りつめたディーンは、リーの「ライダース101」に真っ赤なナイロン・アンチフリーズというファッションで青春のシンボルとして注目され、そのカリスマ的な生きざまは、特に同世代の若者達に大きな影響を与えました。

一方でジェームズ・ディーンの存在は、ロックンロールの音楽性を大幅に発展させたとも言われており、彼が与えたその影響はプレスリーに留まらずエディ・コクランやジーン・ヴィンセントにまで及んだと言われています。

その後も「理由なき反抗」「ジャイアンツ」に出演し、1年あまりの期間に撮られた3本の主演映画はどれも大ヒット!

しかしながら、彼の生前に公開されたのは「エデンの東」のみで、「理由なき反抗」の公開日は1955年10月27日で、悲劇的な死から1か月も経っていませんでした。そして最後の作品「ジャイアンツ」は翌年1956年に公開されました。

ハリウッドでの華麗な恋愛遍歴の一部

9歳で母親を亡くしたジェームズ・ディーンは母の面影を追い、女性に対して複雑な愛情表現を持っていました。

バイセクシャルでもあったとされる彼の側には、男女含めて様々な有名人が名を連ねていますが、なかには映画会社が流した噂や未確認な情報も数多くあります。

ここでは、彼と関係のあった女性達にフォーカスします。

マリリン・モンロー

1948年の映画「レディース・オブ・ザ・コーラス」のマリリン・モンロー| 出典:ゲッティイメージズ

モンローはジェームズ・ディーンを「ロマンチックで愛情深い」と表現しましたが、二人が会ったという記録は公式には存在していません。

ピア・アンジェリ

「エデンの東」の撮影時期に出会ったイタリアの女優ピア・アンジェリとは、生涯を共にしたいと願うほどの熱愛状態でしたが、彼女の敬虔なクリスチャンである厳格な母親から反対され破局してしまいます。

アンジェリは、1954年11月に歌手のヴィックダモーンと結婚。
結婚式の当日、その事実を自分の目に見て確かめたかったジェームズ・ディーンのバイクに乗った姿が、式の間ずっと教会の外で目撃されています。

アンジェリとのロマンスが完全に終わった後、ジェームズ・ディーンは破局の傷を癒すようにカーレースへの更なる情熱に身を投じました。失意の中にあり、無謀な運転を繰り返す彼に友人達やスタジオ関係者は目を離せない状態だったと言われています。

後々伝えられるところによると、1971年に薬物の過剰摂取で亡くなる前に、アンジェリはジェームズ・ディーンとの関係が彼女の人生で唯一の真の愛であると認めていました。

アーサーキット

歌手のアーサーキットは、彼のスパイダーでドライブした時の事を振り返り、死を覚悟する必要があるかもしれないほどの「悪夢」であったと語っています。

ナタリー・ウッド

「理由なき反抗」で共演したナタリー・ウッドは、ジェームズ・ディーンと恋愛関係にあったことを告白し、なぜそれが終わったのかを明らかにしています。

エリザベス・テイラー

友人関係であったとされる頃、エリザベス・テイラーはジェームズ・ディーンにシャム猫を贈りました。彼は叔父にちなんでその猫に「マーカス」と名付け溺愛します。

映画「ジャイアンツ」撮影後、ジェームズ・ディーンは共演したエリザベス・テイラーの夫マイケル・ワイルディングに次のように語りました。
「私はあなたの妻と恋に落ちました。彼女はあなたと離婚して私と結婚するつもりです。」

テイラーは彼の死後、精神を病み長い間闘病しました。そして数年後に自分達の関係についてオフレコのインタビューの中で「自分が死ぬまで未発表のままにすべき事」と話しています。

ウルスラ・アンドレス

人生の最後の数ヶ月間、ジェームズ・ディーンはスイスの女優ウルスラ・アンドレスと関係を持っていたとされています。

二人は彼のバイクでハリウッドの周りを走っているのを目撃されています。
彼の命を奪う原因となったポルシェ550スパイダーを購入した際も、ウルスラは彼に同行していました。

彼女は、1962年に映画『007 ドクター・ノオ』の初代ボンドガールであるハニー・ライダー役を演じたことで有名になりました。

自動車事故によるジェームズ・ディーンの死

image source: ベットマン/ゲッティイメージズ

メモ

クラッシュのほんの数時間前に立ち寄ったガソリンスタンドでのスナップショット。ジェームズディーンは、彼がリトルバスタードと名付けた彼の愛車であるシルバーのポルシェ550スパイダーの隣でタバコを吸っています。

1955年9月30日、人気絶頂の中、ジェームズ・ディーンはメカニックのロルフ・ヴューテリッヒと共にサリナスで行われる予定だったレースに出場するため、カリフォルニア州の州道41号線を納車されたばかりのポルシェ550スパイダーで135キロ (そんなにスピードを出していなかったという目撃談も)の速度で運転中、分岐点(Y字路)前方から走ってきた23歳のドナルドターナップシードが運転する1950年製フォードチューダーと左側から側面衝突しました。

空中を舞い大破したポルシェの中から救出されたジェームズ・ディーンは、まだ呼吸していたという説と全身へのダメージが酷く即死状態だったという説がありますが、午後6時過ぎに到着した搬送先のパソロブレス戦争記念病院にて死亡が確認されました。

その悲劇が起こったのは「ジャイアンツ」の撮影がアップした直後の悲劇であり、まだ24歳という若さでした。

事故の予感と避けられなかった不運

・事故の前日、マーカスと名付けられた溺愛する猫を友人の女性に譲っている。
・普段と違い、事故の数週間前から何故か急に友人・知人に連絡を取っていた。
・知人達の多くはポルシェに不吉な予感を感じ、レースに行くことを止めていた。
・当初、レース場まで車をトレーラーで運ぶ予定を前日に変更して自分で運転した。
(レースの為に慣らし運転が必要だった為の判断とされている。)
・事故の2時間前にスピード違反で捕まるが、その後もスビートを落とさず走行していた。
・スパイダーはとても小さく、現場では夕日に重なり見えずらかったとも言われている。
・致命傷は首の骨折だが、救急搬送時にネックブレースが彼に付けられていたら助かったかも
・更に搬送中の救急車が事故に合う二重のアクシデント、首に更なるダメージを与えた。

彼の死後、アカデミー賞の最優秀主演男優賞に「エデンの東」と「ジャイアンツ」で2度ノミネートされています。死後、アカデミー賞にノミネートされた史上初の俳優となりました。

『ポルシェ550スパイダー』リトル・バスタードとは

1953年に誕生したこの車は、ポルシェの小型レーシングカーで、当時のヨーロッパを始めアメリカのレースシーンでも活躍、デビュー直後から輝かしい戦歴を残していました。

ジェームズ・ディーンはレースへの参加にも意欲的であり、1955年9月21日、それまで乗っていたポルシェ356スードスターから550スパイダーに乗り換え、新しい相棒に『リトル・バスタード』と名付けました。

このニックネームは映画「ジャイアンツ」でダイアログ・コーチだったビル・ヒックマンが彼につけたニックネームだったと言われています。

彼は、初代バットモービルを創作した有名なカスタムカー・ビルダーであるジョージ・バリスの元にこの車を持ち込み、フロントのボンネットに”130”のナンバーを、そしてリアのエンジンフードには同じく”130”のナンバー、そしてその下に”Little Bastard”の名を入れるようにオーダーしました。

ジョージ・バリスは、彼の事故後に次のようにインタビューに答えています。
「ボルシェを見た時に何か嫌な予感がした。だからジェームズにはサリナスに行くなと言ったんだ。」

都市伝説、リトルバスタードの呪い

ジェームズ・ディーンの死後、すぐに現れた別の伝説がありました。これは彼の最愛のポルシェに関するものです。

彼のファンは、ディーンが事故の数日前に安全運転を啓蒙する公共広告用の映像を収録していたことをすぐに指摘し、彼が視聴者に向けて「スピードを出すのは一般道ではなく、レース場で」また「君の安全運転が救う命は、ひょっとして俺の命かもしれない」と訴えています。

このインタビューの撮影後すぐに亡くなったため、この映像が放送されることはありませんでした。この偶然の一致だけでも十分に不気味でしたが、すぐにリトルバスタードに関する奇妙な事件も報告されました。

事故後、大破したポルシェの車体をジェームズ・ディーンが信頼していたカスタムビルのダージョージ・バリスが買い取りました。高性能なレースカーのパーツは、高額で取引できたからです。

しかし、彼のガレージに持って行き、運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させる事故が起きています。

翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い取り、共に自分たちのレースカーに搭載しました。2人が挑んだレースでは、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中に突然タイヤが外れ、居合わせた警官に重症を負わせるという事故を起こしています。

もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡してしまいます。

その後、エンジンとミッションは再び外され、他のポルシェに積まれて、日本に来ていたという事実が確認されています。

一方、ジョージ・バリスが所有していたボディの残骸は、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示されることになり、各地をツアーすることになりました。 1959年、スパイダーのボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり全焼、建物は崩れ落ちてしまった。

サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負っています。

数週間後、スパイダーはサリナスに送られることになりましたが、その途中で運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡しました。

オークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させてしまいます。

オレゴンでは運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させました。

1959年暮れ、ニューオリンズに辿り着いた時は、スパイダーのボディは11ピースまで分解されていて原型がなくなっていたと言われています。

それでもバリスは十分な時間をかけて修理しようと思ったと語っています。

1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしましたが、 この輸送中、スパイダーの残骸(ボディ)が忽然と消えるという事件が発生。

バリスは私立探偵まで雇って行方を探しましたが、ボディ部分は未だに消息が掴めていないようです。

はたして、ジェームズ・ディーンの呪われた車のボディはいまどこにあるのでしょうか?

ジェームズ・ディーン全出演作品

折れた銃剣 / Fixed Bayonets!(1951年)
底抜け艦隊 / Sailor Beware (1952年)
Has Anybody Seen My Gal? (1952年)
Deadline - U.S.A.(1952年)
勝負に賭ける男 / Trouble Along the Way (1953年)
※ここまのでの作品はエキストラ出演のためノンクレジット


ジュリー・ハリスとジェームズ・ディーン(1955)image source: ©ワーナーブラザース株式会社

エデンの東 / East of Eden (1955年)
ジェームズ・ディーンが人気、実力を不動のものにした作品で映画初主演作。アメリカの作家、ジョン・スタインペックの作品をエリア・カザン監督にて映画化。悩める青年キャル役をジェームズ・ディーンが見事に演じてハリウッド進出の足かがりを作った作品。

主役を選ぶスクリーンテストでは、ポール・ニューマンも候補でしたが、エリア・カザン監督は最終的にニューマンは年を取りすぎていると判断しました。

映画撮影時、休憩中に撮影所内でモーターサイクルを乗り回すことから、バイク禁止令が監督から出たという逸話もありますが、実際にはワーナー・ブラザーズとの契約中、スタジオのボス、ジャック・L・ワーナーは、ディーンがトライアンフTR5トロフィーやポルシェ550を公道で運転することを禁止し、閉鎖されたサーキット内で走らせることのみを許可したという事のようです。

理由なき反抗 / Rebel Without a Cause (1955年)

この映画でジェームズ・ディーンは、自らをコントロールできず、非道徳的な行いによって親世代との対立を深めていく若者を演じ、俳優としての立ち位置をより確かなものにする事に成功しました。また、デニムがファッションへと進化する、その幕開けはこの作品から始まったと言われています。

ニコラス・レイの作品を自身がメガホンを取って映画化した作品。真っ赤なドリズラーにデニムというジェームズ・ディーンの伝説的なスタイルはこの作品で生まれ、それが1950年代のアメリカのアイコンになったのは必然でした。

この映画に出てくるプラネタリウムのシーンはロサンジェルスにあるグリフィス天文台が使われたことや、チキンレースのシーンは有名です。
彼はナタリー・ウッド、サル・ミネオと共演し、映画は3人の若者の感情的な疎外感と、思春期のライバル関係から生じる壊滅的なドラマに焦点を当てています。

ナタリー・ウッドとはこの映画で共演した一時期、恋愛関係にありました。

ジャイアンツ / Giant (1956年)
あっという間に銀幕を駆け抜けたジェームズ・ディーンの遺作。

この作品で彼は、テキサスの牧場主夫人に思いを寄せる牧童ジェットを演じ、貧しい牧童から一転して石油王に成り上がっていく男の不幸な生涯を、後半は老けメイクを施して熱演しています。

ジェームズ・ディーンだけでなくロック・ハドソンやエリザベス・テーラーといった豪華キャストも忘れてはいけない作品。

奇しくもこの作品の撮影終了後、彼は交通事故でこの世を去ってしまい。公開されたのは彼の死後でした。


ジェームズ・ディーンは、故郷であるインディアナ州フェアマウントのパーク墓地に埋葬されており、彼の墓石には、彼を愛する女性ファンが残したキスの口紅の跡がちりばめられています。

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